原付で1号線を走っていて寒くなったなと思う。乗る前にミラーに写った自分が、歳をとって疲れた男でショックだったのもある。とても寒い。18歳の時に、その頃としては奮発して買った、よく分からない上着が風にカサカサいう。よくまだ着られるものだ。買って帰ってみると頻繁に着るほどには気に入らず、かといって捨てるほど嫌いなわけでもなかったからだろう。心の中に澱のようなものが溜まっていっている。これは知っている。対処のしようがないものだ。ずっと前から持っていて、ここ最近は目に入らないふりをしていた。

若いうちの憂鬱はまだいい。歳をとってからのそれは許容されるのだろうか。誰が、というのではなく、美的観点での話だ。

あえて言おう。心の底から思っていることだ。歳をとりたくなかった。経験や思想がそれをケアしてくれる、とあなたは考えるかもしれない。そうかもしれないけど、僕の印象としては、それらは問題に対して全然見合っていない。世界のすべての疑問に対する回答を得て、社会に遍在するあらゆる悲しみを癒すことができるほどの、経験や思想があるのなら、あるいは歳をとることの慰め程度にはなるだろう。そしてそんなものは存在しない。子供だって分かる。

世界は美しい。理解できる。1号線の前を行く、車のテールランプだって見ようによっては美しい。赤いラインの連なり。

僕は見た目の話をしているのだろうか。それはかなりの部分そうだ。それから純粋性も論点になる。例えば僕は今、かなり憂鬱であるが、それに浸りきる快楽を自分に許すことができない。有り体に言えば恥ずかしいのだ。それから怖い。もう既に、これがどのくらいの奥行きを持っているかも、中の暗さも、戻ることの困難さも想像ができなくなっている。まして今の自分が抱えている社会的状況で、それに耐えることができるのだろうか、と。

社会的状況、と書いたら、スッと澱がはけた。社会的状況、ときた。僕はもう、継続する躁的な日常を繰り返すのがいいのだろう。それはそんなに嫌じゃないのだ。性格的にも合っていると思う。大切に感じるものもいっぱいできた。ただたまに、すごく寂しい。