小児科の待合室で知らない子どもと遊んだ。僕が持っていたポテトのミニカーを転がしていた。ああ、この子は父親と遊んでもらえないのかな、とか、何の根拠もないことを想像して世を儚んだ。子どもはそのうちに帰って行った。

女の子はトラックの荷台にぬいぐるみを入れようともしていた。いろいろ試すのだけど、どうしても蓋が閉まらない。格納ができないと、トラックの魅力はそのほとんどを失う。僕にも理解できる。小さいぬいぐるみを一緒に探す。もう少し、でもどうしてもぬいぐるみの頭が出ている。

妻と息子が戻って、どうということもない風邪だと分かり、それでもまだ小さなぬいぐるみを探した。見つけても、もう見せる相手がいなかった。

大きい熊のぬいぐるみが良いものだと、今日までは思っていた。

悲しみはないほうが良い。それで世の中から崇高なもののいくらかが失われるのだとしても、それはそれで構わない。代わりにビールを飲みながら、バラエティ番組を見て過ごす。日々は流れる。質は問われない。ブラックマヨネーズはあんなにも面白いじゃない。

他人の幸福がどういう形をとるものでも僕には構わない。それは、こちらから容喙できる類のものではない。小さいぬいぐるみはある。今日、たまたま、あそこには無かっただけだ。まだ、長く生きるのだから、あの子にはきっと見つかる。