久し振りに家に一人でいて、昔はそんなことは当たり前のようだった風にも思うのだけれど、たくさんある筈の時間は音楽を聴いて外の雨を眺めて、その内に暗くなっていって、ソファーのヘリに凭せた首が痛くなったと感じる頃には終わりかけている。時間の齎す感興っていうのは窓に映じる車のヘッドライトだったり、それがアスファルトの水を割く音だったりしますが、感興というそのそれ、そのものがあるいは終わりかけであることを前提とした感傷なのではないかとか、そんなことを思います。

ソファーに寝たまま一日読んでいた本は川上弘美の「あるようなないような」というエッセイでした。僕にはエッセイというものの面白さというものがどうにもよくは分からない中、この本も特に例外というわけでもないとはいえ、何となくで気に入った音楽をかけ、外の雨の音を聞きながら読むのには、作者が淡々と日々を書くエッセイというスタイルは案外に合うものなのかもしれないと思い、もしくはエッセイというものそもそもがそういう特性を持っているのかも知れない。作者は特別な感性を持ってそれ程に特別ではない日常を書いている。つまりはそういうものなのですかね、誰かに言われるのならそうなのかもと思えるのだけど。休日の雨の日に、とりわけ何をすることもなく、気に入った音楽を見つけてその後には本を読むくらいしかすることの思いつかない、それが前にはごく普通の日常であったような気もする日に、誰も僕に何も言わない。


川上 弘美 -あるようなないような

あるようなないような (中公文庫)

あるようなないような (中公文庫)