頭の中にもっといろいろなことが浮かんできた頃があった。それが少なくなったのは歳のせいかもしれないし、または孤独じゃなくなったせいかもしれない。子供の頃にいつもひとりきりのような気持ちでいるのも悪いことばかりではなかった。今はそう思う。仮に散歩のおかげだったと考えることができる。その頃に、僕の頭に雑多な空想がやってくるのは、ほとんどが歩いているときだった。犬が二匹と田舎の道と、誰ともうまくやっていけない感覚。

僕は今、都会に住んでいるので、どこかを歩くということだけを目的にするのはなかなか難しい。歩くという行為は僕にとって一人でいるということだ。

家を出て、前にある坂道を登ってみた。毎朝会社に行くために向かう道と逆の方向だ。向かいの家の庭をひととおり眺める。最近そこには4匹の子猫がいる。僕はそれを見るのを楽しみにしている。けれど、子猫はいなかった。夜の10時には子猫も寝てしまうのかもしれない。勝手に母猫だと思っている猫が、座っている門の上からこちらを見ていた。

坂道の途中にあるマンホールの下から水が地面を叩く音がした。それはかなりの高低差とそれなりの流量を伴っている。脇にあるマンションの住人がシャワーを流した結果かもしれない。どのようなものであっても、全てのものごとは誰かが個人的に持つ枠の中で想定されるだけのことだ。音からだけするから想像なのだとか、実際に眼前にしているから確からしいとか、そんなことは蓋然性の問題に過ぎないんじゃないだろうか。高台の道を歩く。風が窓を叩く音がする。この表現はかなりいい。歩きながら思いついても気に入った。整地中の土地の、途中まで壊された階段からは手すりだけが飛び出ていた。

無目的に歩くというのは思考するということで、考えるということは孤独だということだ。自分を好いてくれる女の子とか、そこそこうまくいっている仕事などでそういうことは忘れることもできる。でも、僕は生きていたいと思う。ここはとてもひどくてすばらしいところ。