何て言えばいいんだろうってことばかり


一週間風邪であった。風邪が辛いというのは多分、人に「咳をしても一人」と言わせるところのあれであって、そういう意味では、現在の僕にとっての辛さは最大ある可能性の半分くらいだろうか。これはコントラストのようなものであるので、過去そうであったと申す際には、今では違うという意味になる。なんて、文学を引用したりなんかして、風邪の原因も深夜に江戸川の河川敷にいたからであろうと、これもまた文学のようであるけれども、実際には中目黒の馴染みの店に行こうとして川沿いを池尻付近まで遡上、沖縄料理屋で酔って渋谷まで歩き、河川敷にいたのも酔いを覚まし、そのまま友達の部屋で寝るのも勿体無い気がしたからであるので、詳述すればまったく文学的で無い諸要素により風邪をひいた。文学はこれらをペーソス紛れに述懐、大筋をうやむやにしつつも細部を肥大させる。さも美しく飾る。

僕らの身体というのは、意外に統一を持って働いているものらしく、風邪でもひかないと意識しないけれど、コメカミの割れるような頭痛、タバコも吸えない喉の痛さ、座っても立ってもいられない全身の虚脱感など、各部がとんでもない自己主張の可能性を秘めているらしい。日常に感謝しつつも耐えかね、ラムネのように解熱剤を飲み、だけど、自己主張っていうのはあれだから、方法論の差異のようなものであって、思春期のような外部に向かう種類のあれは抑えても抑えられるものでもない。嵐は去るなど言って毛布を被って寝ているのが一番いい。風邪はまだいい。去れば、少なくとも去ったままなのだから。

治ったら治ったで律儀なもので、部屋の掃除がしたくてしょうがない。ベッドの中からずっと見ていて気になっていた部屋の薄い汚れ。思うんだけど、この薄い汚れと言うか、小さなズレのようなものは看過しようとすればいくらでもできるもので、でもそれこそがあの、最終的な大きな違和感に繋がる、や、よくわかんないけど、三日間ほどベッドの中が宇宙だったもので、大局が見えなくなっているだけなのかも知れない。

あと、ずっと寝ていると本を読む時間がたくさんあるらしい。いいものもそんなに好きでないものもあったけれど、風景の空虚を好むという節、表現や手法はともかくそういうのはとても良いと思う。日光市の湯西川というところに行った、あそこはとても空虚だった。河川敷も、灯台も。表現を待っていることは頭の中に一杯あって、誰かと話している時、500円の文庫本の中、機会はあるよと囁く、生きていればその内もっとましになるのかも知れないって。