飲めば飲むだけ明晰になる、という錯覚、全て錯覚



朝、カーテンを開けたら雪が積もっているようなものを想像するも、現実には雨後の午前。そして、僕の部屋はカーテンではなくブラインド。しかも寝巻きは黄色い。夏の日のライフセーバーのように黄色い。雪はその、圧倒的な白さと形状をあやふやにする効果とで、風景を空虚にし、空虚には余韻が存在する余地がある。余韻は、本来頭の中だけで纏まっている世界が、ほんの少しだけ、外界に延長したふうな錯覚を与える、少なくとも黄色ではない。

雪の中、友達が来たので、それも酒を飲もうって話だったはずなのだけれど、不思議なことに実際に飲んでいたのは僕だけだった。京都までなるべく高速道路を使わずに行く方法はどのようなものかに関する綿密な打ち合わせ。やはり箱根にあたるところでは東名高速を使うべきだの、その高速道路を清水で降りるのではなく三島ではどうだろう、いやそれだと国道への接続が遠い、だの白熱した議論。僕の役割はどうやって行くかまでで、地図が豊橋に入って愛知を想像してみるなど、そういうところまで。

友達が帰ってから、ベッドの中で読みかけの本を少し開いた気分がそのまま読み終わる。時刻は多分、深夜3時頃。ブラインドから入る光は、眼前のマンションの廊下の明かり、夕方の終わりから早朝まで見分けが付かない。本を読みすぎると、ちょっと前まで友達に会っていたような時でも孤独感がある。凝縮された、脳内だけで展開する世界。砂糖水の後にエスプレッソコーヒーを飲むような感覚。こういうのが好きなんですよ、と言いながら、どこかで、苦いな、と思っている。

この素晴らしい世界、と言うこともできる。ただ、素晴らしいと言う時のこの言葉には多分に多義性が、ある。多義性というよりも、寧ろ言語の省略が。雪がとんでもなく降って、全てが埋まっていないかな、と想像する反面で、脳が溶けるまで飲んで京都までの道の検討を続けたい。生きている、いた、という部分がこの省略に、繋っている。