今日の空は夏みたいに

外に出てみたら抜けるような青空。夏の青さに春の気候だった。それは一種の楽園みたいに。嵐なんてこなかった。あるいは僕が寝ているあいだに、それは過ぎていったのかも知れない。そうだとしても眠りなんていうのは、主観にとってのある種の死だ。死んでいるあいだは世界は制止している。より正しくいうと、そのあいだの時間は消し飛んで結果だけが残る。スタンド?

僕にとっての夏の空は、群青色のなかの遠くの積雲だ。風に流れていくとなおいい。どちらかと言えば、積乱雲は夏の終わり。少し悲しくなる。今日の空はちょうどよかった。とても気持ちがよくて、それでいてちっとも暑くない。

駅前のパン屋でカットなしの山型食パンを300円で買った。きっとこれは少し高いのだと思う。でも今日はそういう日だったのだ。公園の池を鴨が群れをなして泳いでいた。すごくおいしそうだった。鴨は鍋にして食べるのがいい。味に夢中になれるようなクセがある。テリーヌとか、難しいもののことはよく分からない。そういうものはやっぱり難しいところに誰かと食べに行って、その誰かがいるから、よいものと感じるのかなとは思う。気分的なものとして。

嵐はどこかへ消えていった。誰かがそのうちに、その在不在を僕に教えてくれるかも知れない。よりありそうなのは、そんな疑問を感じていたことも忘れてしまうことだ。きっと明日の朝あたりに。帰ってきたら、ドアの前に立てかけておいた傘が倒れていた。拾って開いたら、中から桜の花びらと葉っぱが落ちてきた。それだけで嵐があったと断定するのは早計だろう。近所のネコが僕の傘とたわむれた結果ということもなくはない。そして、そうなのだったら、なんだか余計に微笑ましい。こうもり傘とミシンだって出会うんだよ。美しく。



昨日の夜、『ポトスライムの舟』という小説を読んだ。これが帯のあおりにあるように、“仕事をがんばろうと思える”とか“働いている人なら共感する”とかの感想を持たせるものだとは僕には思えなかった。強迫観念に追われるように働いているひとが、ふとしたときに疑問を感じたり、現在を肯定できたりできなかったりする話だ。とても狭い個人にとっての世界を、いろいろな人物の登場によって擬似的に広げるという、小説としての役割は問題なく果たしているとは思う。小説による極端な感情移入なんて、僕にとっては太宰治だけで十分だ。

ポトスライムの舟 (講談社文庫)

ポトスライムの舟 (講談社文庫)