ケバブの話

太陽が眩しかったから人を殺しちゃうようなこともあるわけだ(※異邦人)僕もそういう、衝動に導かれた生き方を少しはしてみたかったと思う。考えてみれば理由のない行動というものを、僕はほとんど取ったことがない。それは有意義とかそういうことではなくて、頭のなかで目的と結果を考えないで、ということだ。

そんなことを言っていると明日にも死んでしまうみたい。そんなことはないのだけど。

今日はケバブが食べたかったので、隣町まで歩いた。隣町にはケバブ屋がある。この辺りは田舎で育った僕にしてみれば都会で、隣町までなんて30分もかけずに歩けるし、その駅前ではケバブが売っている。歩くのは好きで、昔は道にも詳しかったけど、Googleマップが登場してからは脇の道に入ることはなくなってしまった。何かは失われてる。最短の道を確実に知ることができるツールがあるのに、自分で試行錯誤したりはしない。わざわざ遠回りしようとも思わない。どこかの角で間違えて道に迷ったり、結果的に抜け道を知ったり、そういうことはもうない。それでも僕はよく歩くから、一緒に歩いている妻に、そこにあるはずのものを得意気に紹介する。ネコの集まる空き地とか、驚くほど狭いのにちゃんと通じている路地とか、雰囲気が好きな家とか、まるで俺の道だと言わんばかりに。

ケバブはちゃんと買えた。売っているのはちゃんと中近東の人だった。気分的な問題としてよかったと思う。トルコを込みで食べたかったのだ。トルコ人だったのかどうかまでは分からないけれど。それを持って高台の住宅地の中にある公園で食べた。ケバブはおいしかった。スパイスが好きだ。異国の味がする。遠くに来ているような気分になる。歩いて数十分の異国。

何年か降りでブランコに乗った。いい大人が数年前にも乗ったブランコ。僕は昔、ブランコの座りこぎがどうしてもできなかったはずなのに、今では苦もなくできる。とても簡単だ。だから僕は、かつての僕と同じように、ブランコの座りこぎができなくて、そのことを実は気に病んでいる子供がいたら言ってやりたい。「いつか、今の自分では想像できないような大人になってから、恋人ができてブランコの座りこぎのやり方を教えてくれて、そうしたら案外簡単にできちゃったりして拍子抜けしたりするんだよ。だからあんまり気にすることはない」、と。そこにある隠れたペーソスは、教わることは他にもいっぱいあるということ(決して満足できない)、そして誰でも今の自分では想像できないような将来の自分になる、ということだ。子供は「今できないんじゃ、そんなん意味ねーよ」とか言うかも知れない。それは実にもっともで、僕が本当に言いたかったのは「あんまり気にすることはないよ」、というところ。前段はいらなかった。

ブランコ、ぶんぶん。空がキレイだった。空がキレイだったから、それを見上げる理由が欲しくて(原因)、ブランコに乗って青空を見上げた(結果) そんなことはない。本当に、ただ偶然にキレイだった。曇った空、どこまでも続く住宅街の屋根。