バーボンのこと

外は明るい。時間は4時少し過ぎ。外には出ていないけれど、晴れているのがよく分かる。昼過ぎに起きてから3時間くらいかけて「ロング・グッドバイ」の後半を読み終わった。パブロ・カザルスが演奏するバッハの無伴奏チェロをかけている。もうしばらくしたら暗くなるだろう。

ここまでの文章は袋小路だ。感想がないから。自分には細かい感想があまりない。大雑把に良かったとか悪かったとか思うことはあるけれど、具体的にこの部分の描写がどうこうとか、この音域の伸びがどうこうといった印象を持つことができない。そういうことをしている人を見ると、すごいなと感じる。そう感じるだけで、立派に思ったりするわけではない。むしろ、その辺は逆だ。

ところが、その「部分の話」がある。ストーリーの中で、重要な役割になる作家がいる。彼は作家としてのインスピレーションを失ったことを自覚する瞬間として、「自分が前に書いたものを読み返して、ひらめきの源泉としてそれにすがるとき」を挙げている。

これは別に作家じゃなくても構わない。ただ、大概の社会的人間にひらめきなんて必要がない。社会的な仮面のなかで、かつてあったものは分別の欠如として済ますことができる。頭の中で何かがたまに引っかかったとしても、成熟がそれに対処する方法を教えてくれる。もしくは気がつかないふりをすることを。

「気がつかない振り」は、本当に気がつかないことを可能にしてくれるだろう。たまに無責任にバーボンのオンザロックとかを飲みながら、昔の思い出とかをいじくりまわせばいい。そうすることで、墓の穴はどんどん深くなっていく。

同じ話の中で、その作家が無菌室みたいな共同体社会に安住するべきではなかった、と編集者が言うシーンがあった。そういうところにいるとひらめきが失われると。そのような面もあるだろう。想像以上にあると思う。一方で、そんなことに何の関係も持たない要素もあると思う。そっちはどうにもならない。

恐怖というのはそういうものではないだろうか。僕にとってはそうだ。人間は自我が芽生えてからずっと、自身の死のイメージにおびえ続ける。それなのに自分が作り出す墓の穴はどんどん広がっていく。そして、最終的にはそこに自分自身で入っていく。オンザロック


夜の23時。自然なかたちに収まるときがあるだろう。それは元来たところに帰ろうという欲求なのだと思う。夜は暗くて静かで、遠くを車が走っていく音がたまに聞こえるくらいだ。それは多分ちょうどいい。そんな感じのところから来たはずなのだから。

僕は孤独に耐えかねる。でも、自分の自然なかたちが孤独にあることも知っている。

寂しい、端的にそういうものでもない。何を感じつつあるのかが分からなくて、酒でも飲んでいれば気持ちが丸くなって、少しくらいは分かるのではないかと考えるけれど。

こういう夜に雨が降っていると過不足がない。雨が降っていれば外は音に溢れる。それでいて一つもうるさく感じない。自然なかたちに収まっている。

今日は残念ながら雨はない。それなのに、けっこう気分がいい。孤独に耐えやすい気分なのかもしれない。