レディオヘッドが新譜を出していた。トム・ヨークは今もかっこいいと思う。

抑制が効いていれば真っ当に生きていけるんじゃないかと思う。そういうのって、何年も忘れていた。考えてもしょうがないようなことを考えず過ごすのは、日々が少しずつ躁病に浮かされているみたい。古いフィルムの露光が過剰で、白っぽく霞んで印象がぼやけるよう。今日もタバコが吸いたい。

11時過ぎ、家族は寝ていてやることはない。本は読んだし、酒を飲み始めた。窓の外は遠くまで開けているはずだけど、真っ暗で何も見えない。机の上の花瓶と花と、パソコンを打っている自分だけが写っている。今日は調子がよかった。調子がよくて、ほとんど話さない日だった。タバコが吸いたい。

よく寝たら調子がいいのは経験的に分かっているのだけど、続けるのが難しかった。寝るのがもったいない、というか極端に言うと、その日の最後に1回死ぬみたいな気持ちになった。ここのところはあまりない。年月を経ることの不思議。

ぐずぐず起きていて、終電が走る音を聞き、寝られないなと思いながら換気扇の下でタバコ、そのうちに窓の外が明るくなって仕事は数時間後、のような事態がそれなりにあった、かつて。よく寝たら調子が良かった。今日も続けよう。

夕飯を食べて、goldmundを聞きながら本を読んでいるとすごく眠くなってきた。「イエスの生涯」、何回目かではあるけど、読むたびに遠藤周作が、普通の意味でのキリスト教徒だったのか不思議に感じる。奇跡なんてなかったみたいに書くし。空腹が満たされて、音楽は静か、本はおもしろい、とても眠い。

4月になっていてもう春、窓を開けて本を読むのがとても気持ちがいい。晴れているけど風が強い日だった。家の前は畑になっていて、200メートルほど先は雑木林、さらに向こうには海がある。波のドードーいう音が見えない海を感じさせる。雲が東の空から西の方へ、それなりのスピードで流れていった。

夜になるとこの辺は真っ暗になる。街灯もないし人家もまばらだから。庭があれば、テーブルや椅子を置いて、弱い光、読書などもできただろう。空想も容易な春。

今、友人夫妻が来るのを待っている。2人は息子がかわいいと言う。息子に会いにわざわざ県の北部からここまでやってくる。僕も息子のことをかわいいと思う。何よりかわいい。物事がうまく収まっている。

友人たちには来月、子供が生まれる。生まれたら、きっと、子供を何よりかわいいと思うようになるだろう。子供のかわいさは、一方で大切な何かを奪っていくようだけど、大概の人間はそんなことには気がつきもしない。気がついたとしても、意識しようとしないだろう。そこには、損得勘定のようなものがあるのかもしれない。赤ん坊が与えてくれるものは、想像していた以上に大きい。何だか恐ろしい感じがしなくもない。留保をつけているみたいだとも言えるのだから。

息子は寝ている。背中をこっちに向けている。僕の息子の後頭部ほど愛らしいものもない。ちょっと出っ張っていて、うっすら地肌が見える。顔を覗き込む。小さい手。表側も鼻から下だけが出ている。大人になると、大人の顔として落ち着くのだろうか。その頃には、この留保はなくなるのだろうか。

妻は料理を作っている。客のために用意をしてくれている。息子が生まれて、妻との関係は前ほどしっくりこなくなった。こなくなることもある、という話は聞いていた。自分たちには関わりのないことだと思っていたけれど、自分たちにこそ関わりのあることだった。赤ん坊がやってくる。真ん中に座る。元いた2人の距離があく。

天気はあまり良くない。曇っている。できれば今日は酒を飲みたい。

国立競技場があった場所は今、広大な更地になっている。フェンスに囲まれていて中は見えにくい。その辺の石垣に登るなどして、ようやく中が少し覗ける。荒涼とか、茫漠という言葉が合う感じだった。雑草もろくに生えない。それはそうだ。そのうちに新しい競技場ができるのだから。反対側のフェンスの向こうには、数棟の高層マンション、明かりはそのくらい。更地の中心部はわりと暗い。